Home スポーツ総合 貴乃花とは何だったのか~メディアがおもちゃにした大横綱の人生

貴乃花とは何だったのか~メディアがおもちゃにした大横綱の人生

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取材に応じる貴ノ岩関(左)と貴乃花親方=2018年3月【写真:共同通信】

世間の話題をさらった日馬富士暴行事件から始まった貴乃花騒動、そして日本相撲協会からの電撃退職。あれからまもなく1年になる。秋場所が開催されている今月、またもや元貴乃花部屋の力士たちが土俵外で話題を振りまいている。大関から陥落した関脇・貴景勝の反社タニマチ疑惑。十両・貴ノ富士(元貴公俊)の付け人への暴行。これに至っては去年春場所、当時の親方を窮地に追いやった事件からわずか1年半後の暴挙だった。この2つの問題は師匠・貴乃花からの影響を消し去る事ができない弟子たちが起こすべくして起こしたものだといえるだろう。

貴乃花の経歴については今更語る必要もないが、角界のプリンスと女優の次男として生まれ兄と共に幼い頃から常に周りにメディアがいる環境で育った。中学卒業と同時に兄と共に入門し出世街道をかけあがり頂点である横綱にまで上り詰めた。

現役時代は、華麗なる一族で端正な顔立ち、兄・若乃花との兄弟愛で人気を博していたが、その影で様々な闇も露呈していた。

そのすべてを帳消しにしたのが日本のスポーツ史にインパクトを残すことになった平成13年夏場所の鬼の形相だ。千秋楽、横綱・貴乃花は前日の取組みで重傷を負った右ひざの痛みを押して強行出場、同じ横綱の武蔵丸に本割ではあっけなく敗れた。誰もが終戦を感じ取っていた優勝決定戦、あの鬼の形相を見せた貴乃花は武蔵丸を投げ飛ばし22回目の優勝を果たしたのだ。当時の小泉首相が土俵上で発した言葉は後世に語り継がれる名言となった。「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!おめでとう!」。平成の大横綱・貴乃花の名を不動のものとし、生きる偉人になった瞬間だった。優勝回数はもとより相撲に向き合う姿勢などから横綱・貴乃花の実績、名声を否定する人はいないだろう。本当に素晴らしい横綱だった。しかし、本人が語ったものではないこの名言により、それまでにあったトップアイドルとの婚約破棄や2年後のトップアナウンサーとの“でき婚”。洗脳騒動や若乃花との絶縁宣言など、あまたの暗部が一気に覆い隠される事になったのだ。

このことが後の貴乃花騒動で混迷に陥った最大の原因ではないか。インパクトがありメディアが喜ぶ言葉ひとつで報道が変わり世論が変わる事を肌で感じ、どんなことがあってもメディアさえ味方につければ、たとえ内容がなくとも好感度はアップ、メディアを通じて自分の思ったことが実現できる世の中になると。

引退後の貴乃花はまさにメディアによって作られた偶像を、メディアによって傷つけられ、メディアによって修復される、の繰り返しだった。2010年の相撲協会理事選挙で一門から離脱し、突然の立候補。4期8年にわたり選挙がないまま理事を決定していた相撲協会に激震が走った。選挙では下馬評を覆し理事に当選。理事になって何か具体的に改革を宣言したわけではないのにメディアはこぞって「貴の乱」「角界の改革者」と持て囃した。その後、その選挙で貴乃花に1票を投じた琴光喜が野球賭博で解雇処分になったことなど関係者の処分を不服として退職届を提出したが一夜で撤回。このことも批判されることはなく、仲間を守ってやれなかった責任を退職という行動で示しながら自身の角界改革のために退職届を撤回したと好意的に受け取られた。

その後、順調すぎるくらい順調に理事となり要職の審判部長、大阪場所担当部長、巡業部長を歴任。現在相撲協会と係争中の元顧問や元外部理事、御用メディアと互恵関係を築きながら貴乃花一門をまとめあげ、理事を4期8年務めたが改革といえるものは何ひとつしていない。相撲協会のSNSや女性ファン拡大の施策などについて貴乃花の功績と言う人はいるが、貴乃花の発案ではなく広報部職員とコンサルタントの実績である事は事実だ。